なぜペットを飼いたいのか

将来ペットを飼いたいと思っている。
私には他人を思いやる能力が欠けているように感じられるし、ペットを飼いペットの生活に責任を持つことで他者への配慮の念を形成できるのではないかと考えている。

また、この先、生きる目標もないし、正直今ははやく死にたいと思っているのだが、「ペットのために生きる」というペット本人?には押し付けがましい大義名分を持つことで、絶望的な心境から脱した生き方ができるのではないかと考えている。(それはペットという他者の生活を長期的に巻き込み、かつペットとの関係性は家に閉鎖された一対一で固有のもので社会的な競争を考える必要がないため、自分が物を対象にした行為を続けられない2つの要因、すなわち責任を感じられないということ、また、進歩しようと思えばコミュニティに入らなければならず副次的に競争的な人間関係が生じるということ、を含まないので、長く目標として維持することができそうである)

このように書くと、何て自己中心的な考えだ、と思う。しかし、他者のために生きるというのは結局自分のためだと思う。そこを自覚しないで独善的に子供と接するのが私の親だったが、そういう人間にはなりたくないと思う。ペット飼育と子育ては同義ではないが、根本は自分のためだということは同じだと思う。

ペットの飼育、なぜそれが「生きがい」、自分のためになるかといえば、自分が他者、ペットの役に立っている実感がわくからと言えば聞こえはいいが、実際は吐き気がするほどマッチポンプ的で、結局は自分の所有欲が満たされるということ、さらに自分に固有で社会的な競争から距離を置ける関係性を持てる安心感が得られるということなのだ。
子供を作るということも、少なくとも現時点での自分にはそういうふうに思える。さらに、最近の自分の親を見てて思うが、子供を作る場合は、自分の老後に役に立つから、という理由もあるだろう。

子供を作りたくない反面、ペットを飼いたいと自分が思っているのは、資金面や世話の大変さもあるが、他者の生の責任をマッチポンプ的に背負うことの罪悪感を感じにくいからだろう。なぜ感じにくいかというと、動物のほうも自分に対し人間のように義理や恩を感じることもなかろうから、適度な環境を提供している限り、動物にとって自分の行為が精神的拘束、重荷にはならないだろうと推測するからだ。
早い話、動物とはわかりあえないと、そこのラインで自分は諦めて思考停止することにしているから。