人との関わり方を変える

私には、自分より立場が上だと思う人間に対して反抗的に、自分より立場が弱いと思う人間に対して下手に出る傾向がある。

これは、非常に気持ちの悪い行動だと思う。なぜこのような行動を取るのか。それは、自分が腫れ物のように扱われるのが辛いため、自分より立場が弱いと思う人を見つけて彼らを保護しているという認識をして自分の尊厳を保ちたいからだ。つまり自分が弱い立場にいるという自己認識を認めたくないという傲慢である。そもそも自分より立場が弱いと他人を認識するのも自分であり、その認識が既に傲慢である。

私が認識してきた人間関係は無力感からの逃走の連鎖だったのではないかと思うことがある。家族関係は間違いなくそうだった。

問題は社会にはそのような形以外の人間関係もあり得るのだが、他の関係性に投げ込まれたとき、今までの私は対応が分からず孤立しやすかったことである。

 

自分を乗り越えるために書く

私にとって何か書くことの目的は何か

今までは不満や悲しみをそのままぶちまけるだけだったが、それが自分の精神状態に良い影響を与えたかは疑わしい。

別に私は文学的な作品を作って生計を建てようとも思っていない。書くことによって弱い自分を乗り越えることが私にとっての意味である。

微妙な関係

以前は親しみを感じていた知り合いに、しばらく会わないうちにすごく距離を感じるようになった時に自己嫌悪を感じる。
はじめからかなりの距離を持って接していた人となら、時間を置いても以前のように接することができるが

お金がない月末に思ったこと

一度自分のものと思ったら、それを奪われることに対して恐怖心を覚えるようになってしまうというのが、妬みと並んで広くいさかいが生じる心理的要因であるような気もする。私は自分のこのいわゆるジェラシー(特に友人や好きなひとなど他人を所有しているという思い込み)に今まで振り回されたきたので、それを抑えようと気を付けていた。
しかしものを管理をする上で、自分のものと思う、自分事と思うというのは、モチベーションを維持するために役立つのではないか。なにしろ自分のジェラシーは御しがたい。しかしジェラシーを常に否定するのではなくて、その御しがたさを利用すべき、利用できる事柄もあるのではないか、と最近思うようになった。具体的にはお金である。
学生の自分は現在ほとんど親の仕送りで暮らしており、生活費を自分のものと思うことはしたがっておこがましいと思っていた。しかし金銭管理が出来ていない、浪費癖が治らないのは、お金を自分のものと認識していないことに一因があるのではないか。